はじめに

 

 私たち向後ゼミナール第3期生は、この4月からメディアリテラシーを学習してきました。メディアリテラシーは、理論と実践の両面からアプローチできると思いますが、この冊子は、メディアリテラシーの理論について、内外の主要文献を基に、私たちの学習のレベルで調査し議論してきたことをまとめたものです。

 実践の面では、長野県に伝わる伝統行事「天狗の舞」をテーマにした映像作品を制作しました。映像作品の創作過程をゼミ生が実践することにより、メディアリテラシーについて、何を学び何を感じとれるかを考えてみたかったからです。

 平成14年度法桜祭における向後ゼミナールの研究発表は、この冊子と映像作品という、いわば車の両輪で構成されています。 

 さて、メディアリテラシーといっても、一体それが何を意味するのか、私たちにとっては非常に難解なテーマでした。そもそも「メディア」とは何か?。そうした問題から、手探り状態で勉強を開始し、主に海外の文献や映像作品などを教材に学習してきました。

 毎日の生活のなかで大量の情報を伝播するメディアは、新聞・雑誌、テレビ・ラジオ、インターネットなどマスメディアから、携帯電話、テレビゲーム、CDMDといったパーソナルメディアにいたるまでさまざまです。皆さんは、例えば、衣服を買う場合、値段はもとより色彩やデザインなど自分の価値基準をあてはめますよね。食べ物であれば、それは本当においしいのか、といったことを考えるはずです。しかし、メディアについては、身近に存在していながら、それが一体どんなものなのか、皆さんは意識的に考えたことはあまりなかったのではないでしょうか。

 この冊子は、メディアを理解し活用していく上で必要とされるメディアリテラシーについて、メディアリテラシーの起源、歴史的展望、国内外におけるメディアリテラシーを理論面から私たちのレベルでアプローチしようとする試みです。

 内容については、未熟な部分が目立ちます。しかし、現時点での私たちの学習の成果がここにつめこまれています。皆さんからご意見、ご批判をいただければ幸甚です。

                 

向後ゼミナール 第3期生

 

 


 

目  次

 

はじめに

 

T、メディアとは何か                               

  1、メディアについて                         3

2、「やらせ」と「演出」                         5

 

U、メディアリテラシーとは何か

1、メディアリテラシーとは                                            8

2、メディアリテラシーの歴史                                         16

3、日本、外国のメディアリテラシーの現状                              18

4、日本におけるメディアリテラシーの展望                             21

5、日本のメディアリテラシー教育                                     30

 

V、メディアリテラシ―を学ぶ意義                                        33

 

W、まとめ、感想                                                         38

 

X、課題点                                                              44

 

Y、参考文献、WWWサイト                                             45

 

活動記録


 

T、メディアとは何か

 

1、メディアについて

 

 “メディア”とは、コミュニケーションの流れを構成する要素の一つである。

また、コミュニケーションとは、情報を情報源から受け手に送るまでの流れである。

つまり、送り手が情報を送る際に利用する媒体がメディアということである。メディアは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌を総称した言葉で、正確に言えば、一つ一つの媒体はメディウム(medium=メディアの単数形)である。

そして、情報の受け手がマス(mass=“大量の”という意味)になれば、コミュニケーションがマス・コミュニケーション、媒体はマス・メディアということになる。

 

コミュニケーションの流れ

情報源送り手媒体(メディア)⇒ <<記号(メッセージ)>> ⇒ 受け手

マス・コミュニケーションは、一度に多くの人に情報を伝えられるという利点がある反面、次のような問題点がある。

 

l         情報は一度に多くの人に伝えられるが、その情報を全ての人が鵜呑みにすると、国家全体がその考えに統一されてしまう危険性がある。

l         情報の伝える内容によっては、世の中がよくなることも、悪くなることもある。

l         受け手の考え方はそれぞれ違うので、情報の必要性は個人レベルの判断(選択)に委ねられている。

 

 

 だからこそ、送り手はメディアという媒体を通して“受け手が正しい判断をするための

 


 

情報”を伝えることが求められているのである。

しかし実際には、送り手がそのような要請に必ずしも応えているとは言えないのが現状である。そこで、受け手である私たちは、メディアが伝える記号(メッセージ)の意味を読み解いて、情報を選択する必要がある。

 

 受け手の情報選択の特徴は、送り手が一方的に発信し続けている情報を、受け手が各自の判断によって選択することである。

そこで、受け手が情報に接触して、それを自分の知識として記憶にとどめるまでの流れについて説明していく。

  

 選択的関心; 受け手は、無意識のうちに自分の関心のある情報を選択している。

選択的感受 ; 受け手は、無意識のうちに自分の感覚に合わせて情報を取り入れている。

 ↓

選択的維持 ;  受け手は、以上のようにして取り入れた情報から、自分にとって必要な 

       ものを選択して、記憶にとどめている。

 

 

 

 このように、受け手が、情報を選択する過程のなかにメディアリテラシーが存在していると思われる。

 この“無意識な情報選択”に気付くことがメディアリテラシーを考える上でのひとつのきっかけとなる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

2、「やらせ」と「演出」

 

 20027月、現代のテレビやラジオのあり方、メディア全体の情報環境のあり方を、中学生と放送局番組制作者、「放送と青少年に関する委員会」の三者で考えるというフォーラム、『これからのテレビ・中学生とともに考える』が、「放送と青少年に関する委員会」主催で、東京都港区のabc会館ホールで開催された。

 フォーラムは第1部の中学生の主張「テレビへの提言」、第2部の公開討論「青少年のためにテレビは何をすべきか」に分けて、中学生からテレビに関する様々な疑問、意見が出され、大人たちとの活発な議論が展開された。

 中学生からは、「テレビの中の暴力シーン」、「一つの事件についての扱い方の比較」、「日本における子供向け番組のあり方」などが出されたが、中でも一番多かったのが、「テレビの行き過ぎた演出“やらせ”について」、「日本のニュース・報道番組における“やらせ”を考える」など、“やらせ”に関するものであった。

 しかし、中学生と番組制作者とでは考え方が異なる。例えば、下町風情を撮りたいためにおばあさんに水をまいてもらうのを頼むことを、番組制作者は“演出”、もしくは“再現”であるというのに対し、中学生は“やらせ”であるという。

 では、“やらせ”とはいったい何だろうか。中学生の意見は、「行き過ぎた演出」、「本人が希望していないのにやらせること」、「視聴者に見てほしいがために事実と違うことを付け加えられたり、事実を曲げたりすること」、「個人の意思に反して事実を変えること」、また、報道番組に関しては、「事実を忠実に伝えるはずの原稿が、読み手によっては印象的に言おうとしたりすること」や、「ある場面だけを強く見せようと加工したりすること」などが挙げられた。

 私たちは、“やらせ”を見抜くには、“メディアリテラシー”が必要であると考える。

 具体的な事例から“やらせ”についての見解を示し、その必要性を考えてみたい。

 

民放の「やらせ」の定義

事実の伝達が前提となっている番組の中で、ヒトやモノを使って虚偽の事実をつくりだすこと。

 


 

メディアの商業主義による「やらせ」

 視聴率や発行部数を増やすという目的。前例としては、NHKスペシャルの「ヒマラヤの秘境・ムスタン王国」が有名である。インチキ高山病にかかったスタッフを運ぶ場面で、裏でタイアップしていた日産の新車を不必要に登場させる、雨が降っていたにもかかわらず、雨乞いのシーンを登場させるなど、10ヶ所以上の「やらせ」が行われた。NHKは謝罪番組を放映した。

 

「やらせ」と「演出」

 テレビにおいて音楽や効果音、ナレーションなど、編集技術による演出はドラマや広告、バラエティー番組で不可欠となっている。

 しかし、報道番組で視聴率を意識して、演出が行われるとそれがただの演出であるか、やらせであるか、境界線を引くことが難しい。同じ情報操作でも、バラエティー番組などでは害が少なそうだが、報道番組では社会的にも害が大きい。

 やらせの許せる範囲と許せない範囲の境界線を引き、報道内容の真実を曲げられているか、見極めなければならないのは、私たち視聴者である。メディアリテラシーは、そのようなときにこそ必要とされる。

 

 権力と「やらせ」

 視聴者を楽しませようとする「やらせ」とは違う「やらせ」もある。

 それはメディアが特定の権力と手を結んで、巧妙に世論をミスリードしようと、意図的に偏った情報を送ってくるやり方だ。

 例えば、ある企業の商品を、番組中で好意的な印象を与える報道をする。すると視聴者は、その商品に対して悪いイメージは抱かないだろう。

 これは視聴率のための「やらせ」ではないが、メディアが大企業や政府といった権力からお金をもらって行うものである。よってやはり、メディアの商業主義と結びついているといえる。

 視聴率稼ぎと大きく異なるのは、この「やらせ」がなかなか見破られない点である。

 一般人や専門家の声も取り入れて客観的報道に見せていることが多いので、通常のニュースと見分けがつかない。そして、資金力のある企業や政府に都合の良い意

 


 

意見や政策が、私たちの意識しないところで報道されて、情報操作されてしまう。

 

 日本のメディアの多くが企業である以上、財源として広告収入が必要であり、どうしても視聴率主義に走ってしまう。この実体の中で「やらせ」をふせぐことは困難である。

 また、番組において「演出」という効果があってこそバラエティー番組に娯楽の機能が現れるともいえる。報道における「やらせ演出」を、視聴者は決して望んではいないし、それはどうみても許されるべきではない。

 しかし、バラエティー番組で「演出」が行われなかったらどうなるか。番組は無味乾燥したものになる。視聴者はおもしろさを求めて見ているのに、見る価値がないと判断するだろう。

 実際にバラエティー番組でも「演出」のないものばかりが放映され、視聴率が下がり、スポンサー企業も減り、メディアの収入源がなくなったとしたら、メディアの存続自体が危うくなる。そのため、メディアにおける「演出」を止めることはできないのだ。だが多くの中学生はこうした「演出」も「やらせ」と同様にあってはならないと見ている。

 大事なのは、視聴者一人一人が「演出」と「やらせ」の間に境界線をひくことだ。また、「やらせ」をきちんと見抜き、指摘する能力を身につけることである。

 ここに「やらせ」と「演出」をひとくくりに否定する中学生に対して、メディアリテラシー教育を行う意義がある。両者のあいだの境界線を見極め、メディアからの情報を正しく受け取れる視聴者が育つことで、将来的にも不当な情報操作を防ぐことができるのだ。

 メディアリテラシーという言葉もまだ十分には認識されていない日本だが、メディアで「やらせ」や「演出」が起こりうる状況にある以上、メディア教育の必要性は十分にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

U、メディアリテラシーとは何か

 

1、メディアリテラシーとは

 

 メディアリテラシーとは何かを明確に定義することは簡単なことではない。なぜならメディアリテラシーの研究と実践が世界各地でグローバルに展開され、それぞれの国や地域などによって異なるメディアの発達段階・制度・メディア企業の成り立ちに対応してさまざまな形をとって進められているからである。しかし、次に紹介するメディアリテラシーの8つのキーコンセプトが、基本概念として考えられている。この8つのキーコンセプトは、1989年にカナダ・オンタリオ教育省から出された『Media Literacy : Resource Guide』を基にしている。

 

8つのキーコンセプト

 

1.メディアは構成物である

 メディアは、外界の現実を単純に映し出しているわけではない。そうではなく、メディアが映し出したものは、いろいろな決定要因や決断に基づいて巧妙に構成されている。メディアリテラシーはこの構成物を解体し、構成物がどのように作られているかを明らかにしようとするものである。

 

2.メディアは現実を構成する

 私たちは観察と経験に基づいて、世界や世界の動きを理解しているが、そうした観察や経験は、メディアによって、もたらされている。私たちの現実観の多くは、あらかじめ構築され、また、あらかじめメディアの見方、解釈、結論が組み込まれた、メディアメッセージに基づいている。したがって、私たちの現実観の多くは、メディアによって形成されているのである。

 

3.オーディエンスはメディアから意味を選び取る

私たちの現実像の基になっている素材の多くが、メディアによって与えられているとすれば、私たちは一人一人の要因にしたがって、意味を見つけ出す、あるいは

 


 

メディアと向かい合って意味を選び取っていることになる。そうした要因としては、個人的なニーズや不安、日々の喜びや困難、人種や男女によるものの見方、家族や文化的背景などが挙げられる。


4.メディアの商業性

 メディアリテラシーには、メディアがいかにその商業的性格によって影響されているか、商業的性格がいかにメディアのコンテンツ、技術、配給システムに悪影響を与えているか、ということを意識させる目的がある。メディア生産物のほとんどはビジネスである。だから、利益を上げなければならない。そこで、私たちがメディアで見、聴き、読むものが、比較的少数の者によって支配され管理されている、ということが主要な問題となる。


5.メディアにはイデオロギー的及び価値観を含んだメッセージが含まれている

 すべてのメディア生産物は広告活動であって、ある意味では、価値観や生き方を表している。主流メディアは、いい生活、消費主義の美徳、女性の役割、権威の容認、盲目的な愛国心といった問題に関するイデオロギー的メッセージを、明示的あるいは暗示的に伝えているのである。

 

6.メディアは社会的、政治的意味を持つ

 メディアが政治、社会を形成していくうえで与える影響は非常に大きい。テレビの持つイメージ性は、国家指導者を選ぶ場合大きな影響を与えている。メディアによって私たちは、公民権、アフリカの家族、エイズといった問題に関心を持つようになる。メディアは私たちに、国内や海外の問題について身近な感じを与えてくれる。だから、マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)[1]のいう“グローバルヴィレッジ”になる。

 

7.メディアの形式と内容は密接に関連している

 マーシャル・マクルーハンによれば、メディアにはそれぞれ独自の文法があり、

[1] 1946年、カナダ・トロント大学の文学教授に就く。1951年、メディア論の先駆的作品「機会の花嫁」出版。1962年「グーテンベルグの銀河系」、64年「メディア論」をそれぞれ出版。

 


 

メディアは独自の文法で現実を創り出す。だから、同じ出来事を伝えても、メディアが違えば印象やメッセージにも違いが出てくる。

8.メディアはそれぞれ独自の審美形式を持っている

 詩や散文の中には、心地よいリズムを持ったものがあり、私たちはそうしたリズムを感じとる。それと同じように、私たちは、異なったメディアが持つ心地よい形式、効果を味わえるようにならなければならない。

 

 メディアリテラシーの研究は、理論と実践の両面において世界各国で行われてきた。理論面で世界をリードしてきたのはイギリス、カナダ。一方、実践面ではアメリカなどが挙げられる。それぞれの取り組みにおいて、主導的な役割をしてきた市民組織の定義を次に紹介する。

 

 カナダ:メディアリテラシー協会(Association for Media LiteracyAML)

    メディアリテラシーとは、メディアはどのように機能するか、メディアはどのように意味をつくりだすか、メディアの企業や産業はどのように組織されているか、メディアは現実をどのように構成するかなどについて学び、理解と楽しみを促進する目的で行う教育的な取り組みである。メディアリテラシーの目的には、市民が自らメディアを創り出す力の獲得もふくまれる。

  

 またAMLは、このように定義したメディアリテラシーの目的として、次のことを述べている。

 

 マスメディアの本質、メディア企業が使うテクニック、テクニックの効果について学ぶ者が十分な情報を手にし、それらをクリティカルに理解できるようになるのを援助することである。

 

 アメリカ:メディアリテラシー運動全米指導者会議(1992)

メディアリテラシーとは、市民がメディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創り出す能力を指す。この力には、文字を中心に

 


 

考える従来のリテラシー概念を超えて、映像および電子形態のコミュニケーションを理解し、創り出す力も含まれる。

 

 メディア教育やメディアリテラシー教育のさまざまな取り組みや多くの理論、実践の基礎を創ったといえる『Teaching the Media』を著したマスターマン(Len Masterman)[]は次のことを述べている。

 

 メディアリテラシーの最終的な目標は、単にクリティカルな分析にあるのではなく、メディア社会を生きる人間の主体性の確立にある。

 

 たくさんの情報やその情報をもたらすさまざまなメディアが存在する今、メディアリテラシーは生涯を通して身につけるべき機能である。この社会をより積極的に生きてゆくためにも、民主主義の確立においても必要である。

 

 この他、各国、機関、団体、研究者たちも独自のメディアリテラシーの定義を行っており、その主なものは、次の通りである。

 

イギリス

・英国放送協会(BBC)

・広告監視機関「独立テレビジョン委員会」(Independent Television Commission : ITC)

・放送基準委員会(Broadcasting Standards Commission : BSC)

 

メディア教育とは、批判的視聴スキルを養うための適切な教育である。

 

・英国映画機関(BFI

 

メディア教育は、メディアを批判的に理解することをねらう。

 


[]リバプール大学研究員、バーミンガム・セントラル・イングランド大学メディア学客員教授。専門は教育学。ノッティンガム研究員時「Teaching the Media」(1985)、その他「Teaching About Telavision」(1980)を著す。

 


 

アメリカ

・ポッター W. ジェームス (W. James Potter)[] 

 

 メディアリテラシーとは、「物事の正しい見方」であり、それを通じて我々はメディアに接し、そのメッセージの意味を理解することである。

 

国際会議・国際機関など

UNESCO「メディア教育に関するグリュンバルト宣言」[4]

 

 メディアリテラシー教育は、クリティカルな理解と能動的な参加を育成する事を目的とする。それは、若い人たちがメディアの消費者として十分な情報を得てメディアを判断できるようになるだけでなく、彼らがその権利においてメディアの制作者となり、よって、社会への力強い参加者となる事を可能にする。メディアリテラシー教育は、若い人たちのクリティカルでクリエイティブな能力を発展させるためのものである。

 

1990年 トゥルーズ会議「メディアリテラシー教育の新しい方向」

 

 メディアリテラシー教育は、ある集団のメンバーに、科学技術的また伝統的なメディアの使用への(生産、配布、定時の水準において)創造的かつ批判的参加を可能にする教育的実践、教育の過程であり、その目的は個人と集団の発展および解放、そしてコミュニケーションの民主化である。

 

1999年 ウィーン会議「メディアとデジタル時代のための教育」

 

 メディアリテラシー教育は、世界のあらゆる国において、すべての市民の表現の

 


[3] MEDIA LITERACY SECOND EDITION」より。

[4] ユネスコにおいては古くからメディア教育についての関心が高く、メディア教育の充実に継続的に取り組んでいる。
   1982年1月にユネスコ主催で行なわれた「マスメディアの利用における公教育に関する国際会議」では、「メディア教育に関するグリュンバルト宣言」が採択された。ここでは、メディア教育の必要性を訴えた上で、その取り組みは未だ不十分であるとして、関係諸機関にメディア教育の諸プログラム開発、教師訓練コースの開発、国際的な協力の促進等について実施を呼びかけた。

 


 

自由、情報に対する基本的な権利の一部であり、民主主義を構築し、維持する手段である。

 

 

日本

 

研究者

・菅谷明子『メディア・リテラシー〜世界の現場から〜』

 

 多様な形態のメディアにアクセスし、どうメディアが機能しているかを考えて、情報を主体的に読み解き、コミュニケーションを図る能力である。

 

・鈴木みどり『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』

 

 メディアリテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力をいう。また、そのような力の獲得を目指す取り組みである。

 

・渡辺武達『メディア・リテラシー』

 

 メディアを使いこなし、メディアの提供する情報を読み解く能力である。

 

・水越伸『デジタル・メディア社会』『メルプロジェクトのはじまり』

 

 人間がメディアに媒介された情報を構成されたものとして批判的に受容し、解釈すると同時に自らの思想や意見、感じていることなどをメディアによって構成的に表現し、コミュニケーションの回路を生み出していくという複合的な能力のことである。

 

 

 


 

・吉見俊哉『メディア・リテラシーの実践』

 

 私たちの身の回りのメディアにおいて語られたり、表現されたりしている言説やメッセージが、いったい、どのような文脈のもとで、いかなる意図や方法によって編集されたものであるかを批判的に読み、そこから対話的なコミュニケーションを作り出していく能力である。

 

・森田英嗣『メディア・リテラシー教育をつくる』

 

 メディア・リテラシー教育は社会の成員の一人ひとりをエンパワーし、社会の民主主義的基盤を強化することを目的とした教育であり、この文脈から離れることはあり得ない。              

 

・星野昭彦・貫井正納・吉田雅巳・芝崎順司・山下修一『新訂 視聴覚を刺激するメディア活用』

 メディア・リテラシーとは、印刷メディアを含めた様々な様態の情報に、アクセスし、分析、評価し、また、情報を伝達する能力である。

 

団体

NHK(メディア・リテラシー研究会)

 

 人間がメディアによって情報を批判的に読み取ったり、創造的に表現するための複合的な能力である。

 リテラシーを身につけるということは、訓練を重ね、読み書きという行為を身体化することにより、文法という壁を透かしてその向こうが見えるようになること、そして最終的には、壁の存在自体を忘れてしまうことだと言ってよいだろう。

 

 

 

 

MELLプロジェクト(Media Expression, Learning and Literacy Project)『MELL

 


 

Projectの地平』

 

 メディアの意味や構造を読み解き、メディアによって自らを表現することによって、新しいコミュニケーションを切り開いていく活動、営みである。

 

政府

・総務省郵政事業庁(旧郵政省)

 「青少年と放送に関する専門家会合取りまとめ」

 

メディアを選択し、主体的に読み解き、自己発信する能力である。

 

「メディアリテラシーに関する調査研究会」

 

メディアリテラシーの構成要素

@メディアを主体的に読み解く能力である。

ア、情報を伝達するメディアそれぞれの特性を理解する能力である。

イ、メディアから発信される情報について、社会的文脈で批判的(クリティカル)に分析、評価、吟味し、能動的に選択する能力である。

Aメディアにアクセスし、活用する能力である。

Bメディアを通じてコミュニケーションを創造する能力である。特に、情報の読み手との相互作用的(インタラクティブ)コミュニケーション能力である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

2、メディアリテラシーの歴史

 

メディアリテラシーの取り組みは、1953年にアメリカでメディアリテラシー推進機関、NTC (National Telemedia Council)が発足したことを契機に、1960年代以降、やがて世界各地に広まっていく。1980年代からは、1982年のグリュンバルト会議、1990年のトゥルーズ会議など、その後も定期的に世界サミットや国際フォーラムなど、世界会議が開催されるようになってきた。まず初めは1980年代のイギリス、続いてカナダやオーストラリアなど英語圏で発展していき、1980年代後半になるとヨーロッパやラテン・アメリカの国々でも展開されるようになっていく。日本においては1980年代初頭から市民の取り組みとしてFCT市民のテレビの会(Forum for Children’s Television & Media)などによって続けられてきたが、なかなか一般的な関心は高まらなかった。しかし1990年代に入り、行政、メディア、市民、教育現場などでメディアリテラシーへの関心が高まり、今日では大きく展開しつつある。

 

1980年代にメディアリテラシーの取り組みが活発化するなか、理論形成で主な役割を果たしてきたマスターマンは、その著書『Teaching the Media』において、以下のメディアリテラシーの必要性を挙げている。

l         メディアが遍在する社会(メディア社会)の現出。

l         意識産業としてのメディアの影響。

l         宣伝情報の増大による情報格差。

l         メディアの権力化によるデモクラシーの危機。

l         映像コミュニケーションの重要性。

l         メディア時代を生きる世代の教育。

l         メディアの私企業化とグローバル化による情報の商業化。

 

 

 

 

 

 

 


 

*メディアリテラシーの略史*

国内 国外

1953

1966

   

1976


1977

 


1978

テレビ放送開始

 

 

 

 

FTC、「子どものテレビ゙の会」(Forum for Children’s Televison&Media)として活動開

[]   アメリカのおけるメディアリテラシー推進機関としてNTCNational Telemedia Council)発足  

[]   ヨーク大学(オンタリオ州トロント)でCASE(Canadian Association for Screen Education )設立。映像教育機関として活動を開始するが、資金不足で1970年代初頭に解散


[]   ボストンで市民がメディア創造芸術として学習するメディア・アートセンター、BF/VF(BostonFilm/Video Foundation)設立  
[
]   カリフォルニア大学大学院生エリザベス・ソーマン(Elizabeth Thorman)。メディアリテラシー誌 Media&Values発刊、1994年、同誌をもとにCML(Center for Media Literacy)設立


[]   トロントでAML(Association for Media Literacy)発足。メディアリテラシーを教える校教師を中心に組織、メディアリテラシー関連の教員組織としてはカナダでは初めてのもの  

1980

 

1985

 

 

1987


1988

1989


 

 

[]   メディアリテラシー推進を目的としたJesuit Communication Project発足。国際メディアリテラシーCLIPBBOARDの発行を開始

[]   ノッチンガム大学教授レン・マスターマン(Len Masterman)、Teaching the Media発表。メディアリテラシーの必要性について、メディアが偏在する社会(メディア社会)の現出映像教育の重要性、宣伝情報の増大による情報格差、メディアの権力化によるデモクラシーの危機など7つの理由をあげ説明

[]   オンタリオ州、メディアリテラシー教育を世界で初めて公教育のカリキュラムに採用

[]   国立映像委員会(National Film Board)、メディア分析の手引き「ビデオリソース・パッケージ」を開

[
]   1988年教育改革法に基づき、学校教育のカリキュラムにメディアリテラシーを導入
[
]   オンタリオ州教育省、メディアリテラシー・リソースガイドMedia Literacy Resource Guideを公表、 AMLが作成、内容は、テレビ、ラジオ、映画、音楽、印刷メディア、広告などを学校の授業で取り上 げる場合のガイドブック
[
]  テレビプロデューサー出身の教師キャサリン・タイナー(Kathleen Tyner)、全国的非営利団体 Strategies for Media Literacyを結成、小学校でのメディアリテラシー教育の推進を目指す

 


 

1990

 


1992


1994


1997

 


1998

 

1999

 

 

 

2000


2001




2002

FTC、「市民のテレビ゙の会」に名称変更

 


FTC
、オンタリオ州教育省発行のメディアリテラシー・リソースガイドを翻訳

立命館大学に日本初のメディアリテラシー講座開設

日本放送労働組合(NHK労組)、「メディアリテラシー」発行

 

文部省、学習指導要領を改正、メディアリテラシーを学校教育に導入する方針を決定
国立教育政策研究所、生涯学習におけるメディアリテラシーに関する総合的研究開始

 FTC、「市民のメディアフォーラム」に名称変更、特定非営利活動法人として活動開始
 
現場の教師を中心とした「メディアリテラシー教育研究会」発足
 民放連、メディアリテラシー教育用番組『てれびキッズ探偵団〜テレビとの上手なつきあいかた』を全国の民放テレビ局で放送

郵政省「放送分野における青少年とメディアリテラシーに関する調査研究会」報告書発表  


社団法人 日本民間放送連盟、東京大学大学院情報学環メルプロジェクト
「2001年度 民放連メディアリテラシー・プロジェクト 研究報告書」

学習指導要領の改訂により「総合的な学習の時間」が(小中学校では平成14年度から全面的に、高等学校では平成15年度から段階的に実施)新設、国際理解・環境・福祉・健康など、これまでの教科の枠を越えた学習が出来る時間を新設

[]  トゥールーズでイギリス映画協会(British Film Institute)と仏(Centre de Liaison de I’Enseignementet des Moyens d’Information)主催のメディアリテラシーに関する初の世界会議開催

[]  アスペンインスティチュート、メディアリテラシー運動全米指導者会議を開催

 


[
]  若者向けアート系商業放送CHUMテレビ、放送業界では世界で初めての「メディアリテラシー教育部」 設置



[
] 文部省、「連邦政府メディア暴力対策」声明の中で、メディア教育方針を示す
[
]  コロラド州で全米メディアリテラシー会議開催

[]  全州の学校でメディアリテラシー教育を義務化

 

 



[
]  トロントでメディアリテラシー国際会議「サミット2000」開催  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

3、日本、外国のメディアリテラシーの現状

 

日本では1990年からようやくマスコミ研究者の間で議論が始まったメディアリテラシーであるが、諸外国ではそれ以前からメディアリテラシーが教育の一貫として普及していた。アメリカやフランスでは、ほぼ全部の教育カリキュラムの中にメディアリテラシーに関するものがあり、公共放送がメディアリテラシーに関する教育番組を制作している。イギリスではメディア作品の読解、分析中心の授業を行ない、初・中等教育過程を通じて主に母国語の授業の一環として取り上げられている。そのような世界の動きの中で、メディアリテラシー教育を世界で初めて義務教育の一環として取り入れた、カナダの事例を取り上げてみる。

 カナダでメディアリテラシーの義務教育化が実現したのには、アメリカの存在がある。カナダでは、アメリカから発信されるテレビ等の映像メディアが容易にカナダの文化に影響を与えるため、過激な暴力シーンや性描写による子供への悪影響など、カナダ文化への危険性が懸念されていた。そのため、この危険から子供達を守ろうという考えから、メディアリテラシーが生まれた。そして、1978年オンタリオ州の教師や教会神父が中心となってメディアリテラシー協会、AMLを発足させた。メディアリテラシーはオンタリオ州で誕生した。

 では実際どんな教育をしているのか? ここで教育内容の事例をあげてみる。トロント郊外にある中学校では7年生の「言語」(日本でいう国語の授業)の中で、毎週2時間がメディアリテラシーの授業に当てられている。授業は教師が、親しみやすい映画や音楽を教材にし、それに対して子供から意見を聞いたり、子供どうしで議論させたりする。

カナダでは小、中学校の段階で、メディアの特徴を学び、批判的に分析する力を養う。高校生の段階で、実際にテレビ番組などを作ってメディアの可能性、問題点をより深く学ぶという考え方の下に教育が進められている。

 またテレビ界におけるメディアリテラシーへの関心も高い。AMLが製作に携わるメディア教育専門の番組も数多く作られている。例えば、CHUMという放送会社では、メディア教育を専門とする「メディアリテラシー教育部」を作った。内容は多岐にわたるが、例えば映画を原作と見比べて、映像化された時との違いを考えさせるなど、教育に取り入れられた堅苦しさをなくし、楽しく学べるように、若者が興味を示す映画や音楽といった楽しく学べるような番組が制作されている。

 

 

 

      

      

 


 

 

現在のカナダでは、メディア教育に関する情報センターを作って欲しいという親や教育機関からの要望に応え、「メディア・アウェアネス・ネットワーク」(Mネット)を作った。これはカナダでも有名な教育サイトである。そこには、「ウェブ・リテラシー」のページも含まれ、教材は教師・親・生徒・地域リーダーに向けて用意されている。内容の例を挙げると、7歳〜13歳の子供対象の「キッズ・コーナー」では、3匹の『サイバー子ブタ』と呼ばれるキャラクターを案内役に見立てたゲームをダウンロードするだけで、メディアリテラシーを学べるようになっている。この狙いはゲームをする感覚でより楽しく学べると共に、インターネットが普及した現在、インターネット使用時のプライバシーの守り方や内容の偏向したサイトの見分け方などを養うことにある。根底には「デジタル世代の子供は様々な情報や娯楽を提供したり、受けたりする環境の中で育つ。その中で生きていくには、情報に隠された意図を含め、すべてのメッセージを読み取る技術が不可欠だ」という考えがある。教育実践の現場の教師とメディアを作りあげる放送業界が、お互いの立場をうまく有効利用して理念に基づいた実践をしている。その連携がメディアリテラシー教育をうまく公教育に組み込むことに成功し、若者に浸透させた結果になったのである。

 メディアリテラシーが普及しているカナダと、まだメディア教育の普及しつつある日本ではどんな違いがあるのだろうか。

1、メディアリテラシーの先導者

カナダ:ボトム・アップ式(市民が運動を通じて、政府に働きかけていく動き)

日 本:トップ・ダウン式(政府やメディアが音頭をとる中に市民が参加する動き)

2、メディアリテラシーの担い手の関係

 カナダ:市民>(教育>メディア)>政府

 日 本:政府>(メディア>教育)>市民

3、アメリカ・ナイゼーション観

 カナダ:「自国文化への侵略」という認識

 日 本:「他国文化の導入」という認識

 

 

 

 

 


 

日本とカナダのメディアリテラシーへの取り組みの違い

 

 

日本

カナダ
始まりと広がり 政府の報告書やカナダの本から必要とされ始める。 教師による地道な草の根運動
内容 マスメディアそのものが対象 マスメディアの批判的・分析中心
教育現場 総合的な学習の時間で使い方を模索 教師の自主的な研修会の実施
マスメディア 自社検証番組・放送ライブラリー
日本放送労働組合の取り組み
積極的なメディア教育番組の制作
教育カリキュラムでの完全な実施
市民運動 カナダの実践に影響を受け、活動
市民講座
教師や神父が中心のAML
米国からの文化侵入に対する危惧
政府 報告書作成(総務省郵政事業庁 旧郵政省)
情報教育の重要性(文部科学省 旧文部省)
メディアリテラシー教育のカリキュラムの世界初の制度化

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

4、日本におけるメディアリテラシーの展望

 

 日本におけるメディアリテラシーはカナダや諸外国と比べて遅れている。それはなぜだろうか。まず、メディアリテラシーが諸外国で日本に先駆け、どのように起こっていったかを見てみよう。

 

 まず、欧米におけるメディアリテラシーは、1920年代の映画鑑賞指導に始まり、その後、1960年代にテレビを含めた映像メディア、さらに1970年代には新聞等を含めたメディア教育へと発展しており、これには、芸術教育、言語教育、マスコミ教育の観点が含まれている。1962年にノルウェーで開催された「映画・テレビ教育に関する国際集会」においては、「映像教育(screen education)」を国際用語として採用し、「・・・メディアに対して大人と子どもの双方が批判的かつ鑑賞的に反応するための教育である」と定義するとともに、学校教育課程の中で実施されるべきであると勧告している[5]。メディア教育を学校教育の正規のカリキュラムに組み入れる傾向は、1960年代後半から1970年代にかけて出現しはじめた。

 先進諸国においては、学校教育カリキュラムに何らかの形で、メディア教育が導入されている。教育科目については、言語教育関係科目(主に英語等の母語)、社会、芸術等の単独の科目で教えられる場合、複数の科目にまたがっている場合、メディア学習といった独立の科目として教えられている場合、または、これらが複合している場合もあり様々である。ただし、カリキュラム上はメディア教育を実施することになっていても、教材や教師の力量不足などのために、現実にはうまく機能してないこともある。また、教育担当省以外でも、カナダ文化省(Department of Canadian Heritage)・イギリスの文化・メディア・スポーツ省(Department of Culture, Media and SportsDCMS)・ドイツの放送庁(メディア庁)などの放送担当省が、メディア教育に取り組んでいる国もある。

 メディアリテラシー教育が学校教育に組み込まれていない国でも、NPO(非営利機関)が活発な活動を行っている場合があり、中には、これらの活動は政府機関も含め、関係機関が相互に協力し合って実施されている例もある。これらNPOの活動によってメディア教育が学校カリキュラムに組み込まれた例もある。また、放送事業者についても、独自に

[5] 「映像と教育ー映像の教育的効果とその利用ー」放送と教育厳書3(日本放送教育協会)

 


 

メディアリテラシーに関する番組の制作、放送を行ったり、教材の作成を行っている例がある。

 

次にそれぞれの国の現状を見てみる。

 

 カナダ[6]においては、各州の教育担当大臣の会合である「教育大臣審議会」を通して教育課程作成に関しては、各州が協力関係を築いており、メディアリテラシー教育についても取り組んでいる。

 オンタリオ州教育省では、1987年のカリキュラム・ガイドラインの中で英語の一部としてのメディア教育の重要性が示され、カナダで初めて必修科目である英語の中で、メディアリテラシー教育が実施された。1999年秋からは全州で義務教育となっている。

 また、カナダ文化省は、「連邦政府メディア暴力戦略」(1998)という政府声明の中でメディア教育に関する方針を示し、長期目標として、子ども、親、そして全ての視聴者のためのメディア教育を推進するとした上で、メディア教育の重要性を強調し、連邦レベルでCRTC(カナダ・ラジオテレビ電気通信委員会)[]を含む関係者が、これに取り組むべきである旨を強調している。

 CRTCはメディアによる暴力に対処するアプローチとしては、メディアリテラシーも重要であるとし、コミュニティーグループによるケーブルテレビの番組作りの支援などの活動を行っている。

 

 イギリス[8]においては、プレスや映画批評に始まる長いメディア教育の歴史があるが、メディア教育として広く明示的にカリキュラムに組み込まれるようになったのは、ずっと後になってからである。例えば、イングランドの場合、メディア教育の概念が盛り込まれた共通カリキュラムが導入されたのは、1989年である。メディア作品の読解や分析等を中心としたメディア教育は、初等、中等教育[9]を通じて主として母語(英語)の授業の一環として行われ、中等教育終了時の試験科目の中に、選択科目として「メディア研究(media studies)」などが含まれている。


[6] 教育は各州および地域の責任事項となっている。

[7] CRTCは、電気通信及び放送に関する規制機関。

[8] イングランド、ウェールズ、スコットランド及び北アイルランドの各地域に共通の学習指導要領のようなものは存在せず、各地域が独自にカリキュラムを作成している(ただし、イングランドとウェールズは共通)

[9] イギリスにおける初等教育はイングランドの場合、5歳から11歳まで、中等教育は11歳から18歳とされている。

 


 

英国放送協会(BBC)、英国映画機関(BFI)、公開大学(OU)などもメディア教育に資する番組、教材などを提供している[10]。さらに、BBC、チャンネル4などの放送事業者も、メディア教育に関する番組を制作、放送している。

 また、DCMSは、関係省庁の担当者を構成員とする省庁横断的な「メディア教育戦略委員会」を設置し、政府としてのメディア教育に係る総括的な方針を2000年夏に公表した。

 

 ドイツ[11]では、各州間の教育政策、制度の違いを調整し、共通性を確保するために設置した教育、文化担当各州大臣による「常設教育・文化担当大臣会議」が策定したガイドラインに沿って、メディア教育の取組みが行われている。また、各州の放送庁[12]は、メディア教育に関する研究が任務の一つと見なされていることもあり、市民による番組制作への支援やメディア教育の推進団体への支援などを行っている例もある。

 さらに、公共放送であるZDFは、メディアリテラシーに関する番組を放送しているほか、NPOであるJFFは、放送庁からのメディア教育に関する委託研究をはじめ、機関紙の出版、各種セミナーの開催など、メディアリテラシーの普及活動を全国的に行っている。

 

 フランスでは、初等・中等教育[13]の教育課程にメディア教育に関する言及があり、例えば、初等教育の公民科における「民主主義に関する議論」の授業では、メディアリテラシーに関するテーマは必修となっている。

 また、公的機関である国立教育資料センターは、教師用のメディア教育用教材を制作、出版している。さらに、公共放送であるラ・サンキエムは、国立教育資料センターと協力して作成したメディアリテラシーに関する番組を定期的に放送しているほか、NPOであるCLEMIはメディアリテラシーの教材の制作、各種セミナーの開催など、普及活動を行っている。

 

 フィンランドでは、1970年の初めにメディア教育が初等教育のカリキュラム(フィンランド語)に導入され、90年代には共通カリキュラムに組み込まれた。現在、初等・中等教

[10] 例えば、BFIとOUの共同制作による「メディア教育」は、小中学校のメディア教育担当の教師向けの通信教育用教材であり、メディア教育の基本的な理論と教室で批判的かつ実践的な授業を実施するための方法を示している。

[11] 教育に関する基本的な権限は、各州の教育担当省が有している。

[12] 放送に関する権限は、各州のメディア庁または放送庁が有している。

[13] フランスにおける初等教育は6歳から11歳まで、中等教育は11歳から18歳までとされている。

 


 

教育[14]のフィンランド語、芸術、歴史の中で教えられている。

 スウェーデンでは、メディア教育は1980年から必修とされており、現在、初等・中等教育[15]のスウェーデン語、芸術、社会・歴史の中で教えられている。スウェーデン教育放送会社はメディア教育の教材も作成している。また、地方自治体の資金によりオーディオ・ビジュアル・センターが設置されており、映画、ビデオなどについての教育が実施されている。さらに、NPOであるTISは、教師のためのセミナーを開催している。

 ノルウェーでは、メディア教育は1960年代にはカリキュラムに導入され、1974年には必修とされ、初等・中等教育[16]で全国的に教えられるようになった。

 デンマークでは、メディア教育は1970年代にカリキュラム(デンマーク語)に組み込まれ、現在、全ての公立学校で義務付けられている。

 その他、スイスオーストリアなどでも学校教育の中でメディア教育が実施されており、これらの国の中には市民参加型の番組制作を行う放送事業者もいる。

 欧州連合については、19997月に出された「テレビジョン放送のParental Controlの研究に関する欧州委員会コミュニケ」の中で、「メディアに関するリテラシー教育や、テレビ視聴に対する批判的なアプローチが必要である」と提言しており、欧州委員会の「国境を越えるテレビ指令」の見直し[17]に反映されている。

 

 アメリカ合衆国では、1989年の「教育サミット」[18]をきっかけとして、学校教育の全国的なレベル向上は政府をあげての取り組みとなっている。その1つに教育スタンダード[19]に基づいた各州独自のカリキュラム作成、教育の実施が奨励されており、連邦教育省(Department of Education)から関係機関への補助金も交付されている。なお連邦教育省は、メディアリテラシーの普及活動を行っているNPOInternational Society for Technology in Educationに対しても助成金の交付を行っている。

 現在、ほぼ全州のカリキュラムにメディア作品の解釈や制作など、メディアリテラシー教育に関する言及があり、これらは英語あるいは、コミュニケーション学の中で取り扱われている場合が多い。また、公共放送のPBSは、メディアリテラシーに関する番組を制

[14]フィンランドにおける初等教育は7歳から13歳まで、中等教育は13歳から19歳までとされている。

[15]スウェーデンにおける初等教育7歳から13歳まで、中等教育は13歳から19歳までとされている。

[16]ノルウェーにおける初等教育7歳から13歳まで、中等教育は13歳から19歳までとされている。

[17]2000年末に見直しされた。

[18]1989年11月、ブッシュ大統領(当時)が、アメリカの学校教育のレベル向上は国の未来にとって最重要として、全州の知事に呼びかけて開催した。

[19]英語、数学、科学等の担当教師毎に結成された組織を始め、NPOが作成したものまで、教育スタンダートは多数存在する。

 


 

制作、放送しているほか、インターネット上[20]でも教師用にメディアリテラシーに関する情報を提供するなど、さまざまなサービスを行っている。

 その他、全米商業放送事業者連盟(NAB)もさまざまなメディアリテラシー関連の情報をインターネット上で提供しているほか、全米ケーブルテレビ協会などの放送関連団体もメディアリテラシーに関する活動に取り組んでいる。また、NPOの活動として、例えば、「テレビを消そう週間」運動[21]は全米のみならず、世界的にその活動が広がっている。さらに、市民が制作したり、持ち込んだりした番組を、ケーブルテレビのなかのパブリック・アクセス・チャンネルで放映する仕組みが用意されている。

 

 オーストラリア[22]では、メディア教育が導入されたのは1970年代に遡る。1994年に導入された全州共通カリキュラム[23]に、メディア・スタディーズの概念が取り入れられたことにより、メディア教育も全州共通に取り入れられることとなった。同カリキュラムでは、現在、英語、芸術、技術の3科目の中で「メディア教育」の要素が含まれている。例えば、芸術では、教育の一環として、メディア作品の制作やメディア作品の批判的分析などが含まれている。各州はこの全州共通カリキュラムに基づき、独自のカリキュラムを作成し、メディア教育を実施しているが、教育内容については教師の力量に負うところも大きく、バラつきがあるとの指摘もある。

 オーストラリア放送庁(ABA)は、メディア教育に関する国際会議の開催、情報誌の発行などを行い、メディア教育の普及活動を実施している。公共放送であるABC及びSBSは、メディア教育に関する番組を放送している。また、オーストラリア・メディア教師の会(ATOM[24]のような各州にまたがって活動をするNPOは、メディア教育に関する教材の作成、教師のための訓練実施等を行っており、政府機関、放送関係機関との連携も強い。

 

 アジア諸国、特に香港、フィリピンなどでは、政府レベルの取り組みが行われている。例えば、香港及びフィリピンでは、学校カリキュラムにメディア教育の概念が含まれてい

[20]http://www.pbs.org/teachersource/media_lit/related_sites.shtm

[21]NPOである「TVフリーアメリカ」が、1995年以来、米国医療協会、米国YMCA、全米小学校長協会等の団体からの支持を得て毎年実施しているものであり、日本も含め、カナダ、オーストラリア、イギリス等も参加している。

[22]教育に関する権限や責任は、各州政府の所管になっている。

[23]連邦政府と各州政府が出資して設立した「カリキュラム公社」が作成したものであり、各州はこの全国共通カリキュラムに基づいて、独自のカリキュラムを作成することとされている。

[24]ATOMは教育関係者等から構成されるNPOで、メディア機関に携わる教師の能力開発やメディアリテラシー普及に関する活動を行なっている。

 


 

いるほか、韓国では放送法の中に、放送事業者に対する視聴者評価番組の編成義務が規定されている[1]。また、シンガポールでは、研究機関であるAMICがメディア教育に関する研究のほか、各種教材の制作、出版を行っている。

 

 このように世界各国で多様な取り組みが見られ、もちろん日本でもその動きは年々活発になってきている。

 

 日本では、メディアリテラシーというと、文字の読み書きと文学の読解がかなり多く、映像や音、ビジュアル面がほとんど教えられていないことが挙げられる。何かを他者に伝えるためのコミュニケーションでは、さまざまな手段がある。その手段は文字や言葉だけではない。絵や音、身振り、手振りもある。しかし、日本では、これまで言語教育が中心であった。

 

 今の日本の若い世代にはビジュアル志向が多い。例えば雑誌を見ても、文字だけでなく、レイアウトや写真、色、グラフ、イラストなどで、私たちはものを理解するが、それぞれがどういう意味をもつかについて教えられることはない。カナダの教科書では、マクドナルドやベネトンの広告を取り上げている。商品を売るために作られたプリント広告のもつ意味やストーリーを、モデル選びや、色合い、キャッチコピーなどから読んでいく。こうした文字以外のコミュニケーション手段を、どう教育に取り入れていくのか、または、取り入れていけるのか、日本においても検討が必要とされる。

 

 日本において、コンピュータを使ってインターネットに接続するなどの、メディアを使った教育は広がってきているものの、メディアについての教育は、欧米諸国に比べると明らかに遅れている。欧米の教育では「ディベート(討論)」が重視されていて、相手の意見を批判することは、他者から見て否定的にとらえられるということはない。しかし、意見を批判することは人を否定することだとして、好意的に受け取られてこなかった日本と、諸外国との国民性のちがいが、「情報を批判的に見る」という認識をも遠ざけてきた。 

 でも、これからはもっと「問題意識を持って情報に接する」ことの大切さを、考えてみ

[25]総合編成または報道専門編成を行う放送事業者は、1週間あたり60分以上の視聴者評価番組を編成しなければならないこととされている。

 


 

みてはどうだろうか。例えば、女子高生といえば、みんながルーズソックスをはいているというイメージで見られてしまうのはなぜだろうか。昨年の米国でのテロ事件に端を発した一連の報道は、偏りなく伝えられたのであろうか。メディアによって伝えられるさまざまな情報、ニュース、思考は“伝える”ために、誰かの視点で“作られている”ものである。私たちはメディアによって直接体験できない情報をもリアルタイムで受け取ったり、知らない世界を旅することもできるが、無意識のうちに、良くも悪くも、いろいろな影響を受けている。身のまわりに、当たり前に存在する“情報”だからこそ、受け手である私たち自身が、“必要な情報を選び”“何が正しいかを自分で考え”“情報をうまく活用する”能力を身につけていくことが、これからの社会を生き抜くための、大きな力となってくるはずである。

 

 メディアリテラシーにおいて、遅れて出発した日本では、各学校にコンピュータや機材が導入されるようになっているので、インターネットやCD-ROM教材なども使うことができるなど、環境的には他国と比べて恵まれている。1980年代には、簡単に編集できる家庭用コンピュータなどなかった。そこで必要とされるのが、メディアリテラシーに携わる先生の教育や研修、教材開発などではないだろうか。メディアリテラシーの理論的な仕組みやテクノロジーをある程度使いこなすことができないと、教えることは難しいと思われる。

 例えば、前述した通りアメリカでは州により状況は違うが、毎年、全国規模のメディアリテラシーの会議が開かれ、メディア制作者と学校の先生がネットワークをつくって、ノウハウを教えあっている。カナダやイギリスの場合も、教育現場と関係団体の強いネットワークが形成されている。

 

 メディアリテラシーでは「クリティカルに読み取る」・「メディアを使って表現する」・「建設的にテキストを批評的に見ていく“クリティカル・シンキングスキル”」が、重要な要素である。しかし、このうち日本ではクリティカル・シンキングには、あまり力が入れられていない。例えば小説を読むにしても、イギリスやカナダ、アメリカのカリキュラムを見ると、作者の設定やストーリー展開を批評しながら、生徒が作者ならどうするかというように、テキストそのものを“解体”していく。日本では、文学でさえこうした扱いはしていないが、将来は言語のみならず、その対象を映像に広げてクリティカル・シンキングを行う

 


 

カリキュラムが必要とされるのではないだろうか。

 

 そこで日本においての提案がある。

 学校教育においては先生方の努力だけでは限界があると思われるので、メディア制作者と関連団体、そして先生方が協力することが必要である。先生方が、すべてを背負わなくてもいいような柔軟な体制をつくっていく必要がある。例えば、地域社会とテレビ局と学校が協力していけば、地域の活性化にもつながるかもしれない。また、重要なのが学校側の理解ではないだろうか。既成の概念にとらわれすぎずに、子供が映像文化を学習していくことの重要性を理解することが、必要ではないだろうか。

 アメリカやカナダ、イギリス、オーストラリアなど各国の事例を考えると、メディアリテラシー教育は数年単位ではなく、数十年単位で進展してきている。日本でも長年にわたって市民団体がカナダのメディアリテラシーを紹介してきたり、ワークショップを行うなどの活動を行ってきた例はあるが、メディアリテラシーが一般レベルでも注目されるようになったのは、最近のことでまだ成熟してはいないと思われる。だからまずは、行政関係者や、教育者、学者、メディア関係者などを中心にして、国民的レベルの議論をどんどん行っていかなければならない。そうした議論がなければ、メディアリテラシーはただのはやりに終わってしまうかもしれない。きちんとした場を設けて、さまざまな交流をしながら、日本ではどうすればいいかを話し合っていく必要がある。

 メディアリテラシー教育は、諸外国では国語(英語)を中心に、社会科、国際理解、あるいは独立した選択科目などとして存在している。また、カリキュラムには正式に入っていなくても教えられている例もある。日本では2002年から「総合的な学習の時間」がスタートし、そこで取り入れられていることが多いが、ただすべてを学校教育で行う必要はないのではないか、とも思う。現在、学校という存在は昔ほど教育の中心ではなくなってしまっている。地域のセンターなど社会教育の場を利用して、例えばメディアの関係者と先生たちと地域がネットワークを組んで、毎週末にイベントを行ったり、夏休みに講座を開き、メディアリテラシーを取り上げることも可能である。

 日本の教育では、まだまだ生徒の自由な発想を認めない傾向があるため、学校のカリキュラムのなかでは「メディアリテラシーはこういうものである」と断定的に教えてしまう危険性が、少なからずあるからである。そう教えてしまうこと自体が、メディアリテラシーの本質とかけ離れてしまう。メディアリテラシーには前述したように、こうであると断定

 


 

するような、いわゆる「定義」はない。それは、先に取り上げた諸外国の例を見ても明らかである。でも、私たちの考えるメディアリテラシーでは、主体的にものを見て、しかも自分で表現していくということが重要ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

5、日本のメディアリテラシー教育

 

 近年における社会の急激なIT化に伴い、教育現場では情報活用能力を育成する取り組みの一環として、メディアリテラシー教育が注目を集めている。

しかしながら我が国のメディアリテラシーに関する具体的な取り組みについては、一部の教師、NPO、研究機関やメディア機関において自主的に実施されている程度であり、制度的、組織的には至っていないのが現状である。

 

ここでは政府・教育現場・マスメディア・民間団体・研究者の5つの分野のメディアリテラシーに対する取り組みについて大まかに述べていきたいと思う。

 

政府による取り組み

 政府はさまざまな分野における審議会の答申のなかで「情報リテラシー(情報活用能力)」や「メディアリテラシー」について取り上げ、高度通信社会の中でメディアの特性を理解し、情報を主体的に捉えることの重要性について提言している。

 また、学校における情報化への対応を円滑に進めるため、教育用コンピュータ及びソフトウェア、インターネットの設備など、主にコンピュータ分野における学習環境の充実を図る取り組みを行っている。

 

 教育現場における取り組み

 学校教育の現場では、各教科や「総合的な学習の時間」にコンピュータやインターネットを積極的に活用していく動きがみられる。また、中学校の「技術・家庭」や平成15年度から高等学校に新しく導入される「情報」などの教科おいても、インターネットを中心とした新しいメディア教育を実施することで、学校ごとに段階を踏んだ育成を図る取り組みが進められている。

 

*総合的な学習の時間とは

 新しい学習指導要領(小・中学校では平成14年度から全面的に、高等学校では平成15年度から段階的に実施)により新設された、国際理解・情報・環境・福祉・健康など、これまでの教科の枠を越えた学習ができる時間を指す。各学校の創意工夫を

 


 

活かした授業により、自ら学び、自ら考える力の育成を目指すものである。小学校では3年生以上から週3時間程度、中学校では週24時間程度、高等学校では卒業までに36単位配当される。

 

 マスメディアによる取り組み

 放送事業者は、以前からメディアの視聴者に与えるさまざまな影響を研究してきた。近年では小学生向けメディアリテラシー番組やカナダなどの先進事例を紹介する番組の制作も増加している。

 その他、放送関連の活動としては、小・中学生を対象に放送番組や模擬ニュースの制作体験ができる場や設備などを提供したり、テレビ番組が放送される仕組みについての視聴者からの質問に対する回答を、ホームページに掲載するなどの事例も見られる。

 新聞においては、新聞を教材として勉強する学習運動であるNIENewspaper in Education)の取り組みとして、日本新聞協会は諸外国での事例を参考にさまざまな事業を推進している。2000年秋には、横浜に日本新聞博物館・NIE全国センター・新聞ライブラリーを開設し、同所を拠点にNIE運動をサポートしている。

 

 民間団体の取り組み

日本において先駆的な活動を行っている主な団体としては、「FCT市民のメディアフォーラム」が挙げられる。同団体は、1977年の創設以来メディアリテラシーの重要性を認識し、その研究と実践を継続してきており、放送番組の分析や海外文献の翻訳、地方自治体との協力による講座の開設、教材の開発などを行っている。そして、国内だけに留まらず諸外国のメディアリテラシー団体とも提携している。FCTなどの市民団体は、北米のメディアリテラシーに対する取り組み状況の紹介や、テレビ番組をめぐる問題を取り上げる活動面において、他を先導する役割を担ってきた。日本においてメディアリテラシーが認知されるようになったのは、こうした先駆的な市民団体の役割によるところが大きい。

 

 研究者による取り組み

 東京大学大学院情報学環に拠点を置くMELLプロジェクトは20004月に立ち

 


 

上げられた、ゆるやかなネットワーク型の研究プロジェクトである。同団体は、メディアに媒介された「表現」と「学び」そして、メディアリテラシーについての実践的な研究を目的としている。

 国立教育研究所においては、メディアリテラシーの概念についての理論的研究をはじめ、学校教育や社会教育における取り組みや、指導及び児童生徒や成人の習得の程度についての実証的な分析が行われている。その研究の方向性を探るため、1998年から4ヵ年計画の「生涯学習におけるメディアリテラシーに関する総合的研究」というプロジェクトを実施しており、「学校教育編」「生涯学習編」「比較教育編」の3分野の報告書をまとめている。

その他、大学の研究者による取り組みとしては、立命館大学や上智大学の新聞学科をはじめとして、日本大学法学部新聞学科などメディアリテラシーを取り扱う講義は近年増加傾向にあるものの、未だごく一部の大学にすぎないのが現状である。

 

 このように、現在の日本においてのメディアリテラシー教育はまだまだ発展途上の状態にある。大学などの専門的な教育機関だけでなく、義務教育・生涯教育の場においても、更なるメディアリテラシー教育が広がっていくためには、これから多くの障害を越えなければならない。メディアリテラシーという概念が普及しつつある日本において、それをより効果的に教育分野に取り込んでいくためには、国やNPO、そして現場の教師が連携していくことは必須である。そして、更に重要な役割を果たしていくのは、地域の力である。例えば、自治体の施設などで行われる講座などで、積極的にメディアのことを取り上げるなど、親の世代である大人のメディアリテラシーへの理解が深まれば、教育現場へもより効果的に広まっていく。先進国に学びながら、日本に合ったプログラムを見つけていくことも重要な課題である。大人から子供へ、一部の研究者から一般へ、現段階の実験的な試みへの周囲の理解を得ていくことが、メディアリテラシー教育がより効果的に普及していくことにつながると思う。                                  

 

 

 

 

 

 

 


 

V、メディアリテラシーを学ぶ意義

 

 メディアの一般大衆に向けて発する事柄には、表面的な意味だけでなく、さらに深い意味も含んでいる。メディアリテラシーを学ばない人は、メディアの表面的な意味しかわからず、また、全てのメディアメッセージにはジャーナリストの意見が入っていることも認識していない。ジャーナリストは彼らの主観的な意見や解釈(この事件ではこの事柄が大切、あの人が重要人物など)を、私たちに伝えているのだ。さらに言えば、私たちがメディアリテラシーを習得しなければ、私たちはメディアの情報とは異なった考え方を構築することができない。そして、メディアの情報をただ鵜呑みにしてしまうだろう。つまり、メディアリテラシーとは、メディアを多角的な視点から観察することである。これを持たないということは、メディアに対しての視点が殆どなく、メディアによって与えられた価値観や解釈を、疑う余地なく強いられるということになる。

 

 メディアリテラシーとは、私たちのメディアと接し方、私たちに与えるメディアの影響を転換させることである。メディア自体を変えるものではない。

 どのようにして、メディアが私たちに影響を与えているかを理解するために、メディアの影響や私たちへの影響の与え方を認識すべきである。

 メディアの情報は必ずしも全てが正確なものではない。私たちがメディアリテラシーを学ぶ意義は、メディアを有効的に活用し、私たちの生活や知識をより豊かなものにするところにある。そのためには、必要な情報は取得し、不必要なものは捨てるようにしなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

メディアリテラシーにおいて必要不可欠であるperspectiveの意義

 

  メディアリテラシー能力を培うには、必要かつ重要な要素がある。それは、perspective(メディアに対するバランスのとれたもの見方)である。メディアの情報は全てが正確なものではなく、時には私達に誤った情報を流したり、間違った価値観を強いる場合もある。私達は、メディアまたはメディアから出される情報に対して、様々な視点から観察して、正確な情報とそうでないものを見分けなければならない。つまり、メディアの情報を多角的な視点で捉え、正確な情報のみを吸収すべきである。

 では、情報が氾濫する社会で、正確な情報と不正確な情報をどのようにして判別すべきなのか。この解答としては、メディアリテラシーを学ぶしかないように思われる。そして、メディアリテラシーを学ぶ上では、まずperspectiveを持つことが重要である。これは、メディアリテラシーにおいて必要不可欠なものである。このperspectiveには、knowledgestructure(知識構造)等の土台となる要素がいくつかある。以下に、perspectiveの概要を略図を入れて段階的に説明していく。

 

A.Knowledge structure(知識構造)の土台にある基本要素

 

Knowlege Structure

  ‖
   ‖
   ‖
━━━━━━━━━━━‖━━━━━━━━━━
 ‖               ‖              ‖

@Our skill(tool) AInformaion(raw material) BExposing ourselves to
real world

 

図の説明

 @は、我々のメディアを使いこなす技術を指す。(インターネットの活用法など)

 Aは、メディアや現実世界から、我々の所にまで届いてくる情報を指す。(テレビニュースなど)

 Bは、我々の積極的な態度である。仮に、@メディアを使いこなす技術と、A多くの情報を持ち合わせていたとしても、現実世界に積極的に触れて、じょうほうをかつようしなければなら

 


 

ならない。

 knowledge structureには、この@〜Bの要素が必要である。3つの要素のうち、どれか1つでもかけていると強固なknowledge structure(知識構造)とは成り得ない。

 

B, Knowledge structureの構造について

 

knowledge structureとは、いわば知識構造のことである。上の図で示したように、knowledge structureには@〜Bの事柄が必要になってくるが、それだけでは不十分である。強固なknowledge structureを築き上げるにあたって、もう1点重要な事柄がある。以下の図を見てほしい。

●・・・知識のかたまり |━ ・・・・(知識の)結び付き

@もろいKnowledge structure A強固なKnowledge structure
 

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@は、個々の知識は持っているが、それぞれが独立していて、相互に関連性をもっていない。それに比べ、Aはそれぞれの知識が、関連しあっている。要するに、強固なknowledge structureは、個々の知識が相互に絡み合い、点を線で結ぶような1つの構造体となっているのである。私たちは、さまざまな分野において、断片的な切れ切れの情報を持つのではなく、それらの情報を統合させなければならない。なぜknowledge structureが、知識という意味ではなく、知識構造という意味合いを含んでいるかわかってもらえるだろうか。

 

 

 


 

C, Perspectiveの概略図

 

 A,Bの略図を踏まえた上でCの図を見てほしい。メディアリテラシーにおいて必要なperspective(メディアに対するバランスのとれた物の見方)は、図のような3段構造になっている。

 

 

Perspective

 

  <の略図>

Knowledge structure
(知識構造)

 

 
    <の略図>

@Our skill
(メディアを使いこなす技術)

AInformation
(メディアや現実世界から情報)

B私達の積極的な意思や態度

 

   

 

perspective(メディアに対するバランスのとれた物の見方)を多く持つことが、様々な視点を持つことであり、物事を多角的に捉えられるのである。言い換えれば、視野が広いことになる。そして、自分の中にperspectiveをたくさん持つことが、メディアリテラシーにおいて非常に重要なポイントになる。また、強固なperspectiveとは、よく発達したknowledge structure(知識構造)に基づいており、強固なknowledge structureを構築するには@〜Bの要素が不可欠である。

メディアリテラシーとは様々な視点からメディアの情報や、メディアそのものを考察し、メディア全般のことへの理解や関心を高める高度な能力である。また、メディアの情報を、

 


 

個人が主体的に見極め、正確な情報のみを吸収する能力でもあり、メディア情報を自らコントロールする必要がある。

私たちは、メディアリテラシーを学ぶきっかけとして、メディアとの接し方を変えることを提案する。少なくとも、今のメディアとの接し方に疑問をもつべきである。今までのメディアとの接し方で本当によいのだろうか。私たちは、メディアからの誤った情報、間違った価値観を鵜呑みにしてはいないだろうか。メディアからの影響を無意識に受けてはいないだろうか。これらの事を考えるだけでも、メディアリテラシーを学ぶきっかけになるだろう。

 こうして、メディアリテラシーを学び、メディアについて考え直し、自分自身を省みることで、メディアリテラシーの本当の目的である個人の自立へとつながっていくのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

W、まとめ、感想 

 

大原 聡子

メディアはいつも私達に必要な情報を与えてくれる。私達はその情報のなかで自分の知らなかった何かを見つけ、毎日を新しい発見に満ちた素敵なものにすることができる。

メディアはいつも私達の知らないことを知っていて、知りたいと思うことを教えてくれる。それはつまり人々の知的探究心を満たし、芸術的感覚を刺激するということも意味している。メディアの魅力はこういった点にあるのではないだろうか。

テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、街中の看板、駅のポスター、電車の中吊り・・・私達の日常は様々な形態のメディアからのメッセージで溢れている。それらのメッセージは人々の感覚を刺激し、その人のなかに入っていく。メディアリテラシーはそういった無意識のうちに受信したメッセージを重要な意味を持つものへと変えることができるものだ。メディアの性質を知ることで新しい視点をつくりだすということ。現在、メディアリテラシーが各分野で注目され始めているのは、社会が情報を読み解く力を必要としているからである。

 私はこのゼミでメディアリテラシーを学ぶ機会を得ることができた。私にとってメディアリテラシーは難解なもので、同時にとても魅力的なものである。フォーラムへ向けて冊子を作り、その過程のなかでゼミの仲間とメディアについて考え、話し合った時間はとても刺激的であったし、日が経つにつれてメディアからのメッセージを違った視点で捉えることができるようになったことは自分でも驚きだったように思う。

 現在の日本においてメディアリテラシーが広く認知されていないことはとても残念でならない。年齢に関わらず、情報社会を共に生きる我々にとってメディアリテラシーは必要なものであるし、無限の可能性を秘めているものだからだ。例えば小さな子供はメディアと仲良くなるために、大人はより多様な考えをもつために、それぞれが自分に合ったメディアリテラシーを見つけられれば昨日の自分が知らない世界が見えてくると思う。    

 これからメディアリテラシーが日本の教育に浸透していくには恐らくまだ時間がかかると思う。国や民間団体、現場の教師そして研究機関による現段階の実験的な試みが早く一般的なものになるよう、私もメディアリテラシーを学ぶ人間の一人として後押ししていけたらと思う。といっても全然理解が足りていないと思うので、当面はゼミでメディアリテラシー相手に困惑する日々が続きそうですが。

 


 

荻野真理子

メディアリテラシーとは、私たち受け手がメディアから伝えられるメッセージと向き合うことを前提として、メッセージを自分の考えに基づいて取捨選択する(読み解く)能力である。そのため、私たちは、“メディアとは何か”について学んでいく必要があるのだ。

また、そうしてメディアメッセージの特徴を理解していく過程で、メディアリテラシーというものを確立していけるのではないだろうか。

今回は、私たちの視点から“メディアとは何か”についてまとめてみたが、この冊子を読んだ皆様ひとりひとりに、メディアに対する自分なりの視点を築いてもらいたいと思う。

 

岡田 和也

 今回この冊子を作成するにあたって、文献やインターネットなどの資料を調べていくうちに、ますますメディアリテラシーが我々にとって求められているということがわかった。パーソナル・コンピュータがさらに普及する情報社会において、メディアリテラシーが低いということは、正しい情報の取捨選択をする視点(perspective)がない、もしくは低いということであり、とても危険なことであると感じた。

 そもそも、メディアとは何か? をつかみきれていない勉強中の私たちが、このような冊子を作るには到底勉強不足であり説明不足の部分があったが、来年への課題としたい。ただ、言えることは、メディアは賢く使うものであって、決して利用されるものではないということである。例えば、趣味など自分の興味のある分野や専門とする分野においては、自分の目で追求したり、確かめたりしようとするはずである。断片的な知識、つまり、ちょっとだけかじった程度では、その分野全体を見る目が養われない(その分野において詳しくなれない)からである。全体が見えてくれば、その事柄がどのような位置、立場を占めているのかが見えてくる。そこで初めて、そのものごとが「見えた」ということになる。このようなことは、わざわざ言葉にしなくても各自がそれぞれ無意識のうちに行っていることではなかろうか。そこに、さらに問題意識をもってそのものを眺めてみると、また違った側面が見えてくると思われる。

 知識を部分部分だけ拾い集めて詰め込んでいくのではなく、そのように得た知識を頭の中にしっかりと整理して、物事を問題意識をもって眺めてみる。これが、私にとってのひとつのメディアリテラシーであり、これまでの学習で得たことのひとつである。それを続けていくことによって、豊かな感性、発想は養われていくのではないだろうか。これから

 


 

も、メディアリテラシーについて勉強を進めていきたいと思う。

 

関 真理子

この文献を作るにあたってまず必要となったのは英文の読解力だった。大方の本は英語で書かれていたために、当初は内容の把握が思うようにできなかった。でも先生とゼミの仲間で日々解読するうちにその内容が少しずつ明らかになっていった。メディアからの情報とそれを選択する能力、そして何よりメディアから情報を得たいと思う自発的な願望、この三種の神器がそろうとメディアリテラシーという力が発動する。そしてこのメディアリテラシーの力が身につくとは「strong perspective(深いものの見方)」を得たということになる。例えば自分はスマップが好きだとする。彼らが5人組で、歌やコントをするということを知っているとする。しかしこれだけだとまだ「strong perspective」にはならない。この知識構造の中に、彼らの所属レコード会社ビクターのことや所属事務所の内情などの知識を積み重ねることで「developed knowledge structures(より発展した知識構造)」が自分の頭の中で築かれる。それにより「strong perspective」が生まれる。でもここで注意!これにより作られた視点はスマップに限ったことなのだ。他のアーティストについてはまた新しい知識構造が必要となる。自分の好きなことから情報のビルを建てていこう。そうするうちに様々な物に目がつき、もっとたくさんの物事を知りたくなる。人間とは欲深い生き物なのだから・・・()。そうなることで、頭の中にたくさんのビルが作られ情報都市が建設される。そう!あなただけのメディアリテラシー都市が!!

我々は情報という洪水の中にいる。その中にある浮き輪がメディアリテラシーなのだ。しっかり自分の物にして自分や愛する人を守らなければならない。そうすれば現代の受験科目にはなっていないが、人生の試験には合格間違い無しだ。今後は今まである知識を高層ビルにするようにメディアやインターネットを活用して情報を得よう。そして数は少ないがテレビで放送されているメディアリテラシー関係の番組もちらりと目を通してみよう。そういう小さい積み重ねがあなたのメディアリテラシーを大きくする。まだメディアリテラシーは発達の途中である。このメディアリテラシーの全貌を明らかにするのはインディ・ジョーンズでも研究者でもない。これを読んでいるあなたなのだ。

 

 

 

 


 

中村沙織

 今回色々な資料などに触れてみて、まず必要な事はメディアリテラシーが必要とされているのだということを各個人が認識することだと思いました。メディアリテラシーの必要性が認識されるまでにはまだまだ時間がかかってしまうのではないかと思いました。メディアリテラシーはこの時代に生きているからこそ自分自身のために必要なのものなのだと気づかなければなりません。こういった認識は自発的なものであると思うので、まずは認識するという第一歩を踏み出さなければならないと思います。そしてそこから必然的にも必要とされるのがメディアリテラシーを学ぶことのできる場であると思います。また、メディアリテラシーを教える側の必要性、育成の場だと思います。まだまだ先は長いなぁと感じました。資料を読んで、日本でのメディアリテラシーに関する教育などは他国に比べ、全く遅れているのがよくわかりました。すぐに追いつくのは無理ですが、前を歩いている国々を参考にしながら、どんどん取り入れられることができるものは取り入れ、改善できることは改善していき積極的に動いていかなければならないのだと感じました。

 メディアリテラシーを知っていくことは容易なことではないと思います。最終目標はメディアリテラシーを身につけることですが、最初は興味を持った部分から入るのがいいかもしれません。メディアリテラシーにはコレだという定義がありません。メディアリテラシーを学びながら自分の定義を考えてゆくことがまた勉強していく上で良いことだと思います。自分がよりよく生きてゆくために必要なものだと本当に思います。

 今回の研究においてはやはりまだ日本での研究が他国に比べて進んでいないせいか個人的に資料がなかなか見つけられず、少し大変でした。日本語以外での資料はあるようなので時間をかけて読みこなせればと思います。

 

野田 豊樹

 メディアリテラシーを身につけるには、まず、ひとつのメディアからの情報だけを信じず、あらゆるメディアの情報を受け入れることが大切であると思う。そして、その中から最終的にどのメディアの情報が正しいのかを、自分で判断することができて初めて、メディアリテラシーが身についているといえるのではないか。

 今年の夏に行われたフォーラム、『これからのテレビ、中学生とともに考える』で一番感じたことは、私たち大学生と中学生とでは、メディアに対しての意識の持ち方や考え方が異なるということである。中学生はメディアを純粋に見ている。カナダやアメリカなどから

 


 

遅れをとっている、日本のメディアリテラシー教育を活発化させ、もっと多面的に見る能力を習得する必要があると思った。

 例えば、“やらせ”と“演出”の問題に関して、このフォーラムでの具体的な結論は出なかったが、中学生と私たち大学生とでは、認識が異なっていた。

 私が映像を制作して感じたことは、「“やらせ”と“演出”は紙一重である」ということである。制作者側が“演出”と考えてやっていても、視聴者側が“やらせ”と感じれば、それは“やらせ”となってしまう。正しい情報を識別する能力だけでなく、制作者側が意図していることを読み取る能力も、メディアリテラシーなのではないかと、私は感じた。

 

原田 真弓

 日本はメディアリテラシーの文献も少ないため、自分たちの考えをまとめるのはなかなか難しい。メディアリテラシーに踏み込むためには日常の中からその必要性を見つけるのが一番だと思う。

 今回の冊子ではテレビのやらせと演出の問題を取り上げ、それをメディアリテラシーを研究する切り口としたが、他にもニュースを見ていて、なぜこの出来事が取り上げられるのかなどについて興味をもつことも、メディアリテラシーを学ぶきっかけになるだろう。

 私たちにとってテレビを見ることは日常のことだ。テレビからの情報が間違っているのか正しいのかわからず、全てを鵜呑みにしていると、生活そのものがテレビによって築かれているのと同じではないだろうか。情報に日常を支配されないためにはテレビの向こう側で起こっていることまで考えて生活しないといけない。それがメディアリテラシーを学ぶ大きな意義であると、私は考える。

 

横田 淳

 向後ゼミ3期生の文献は「やらせと演出」がメディアリテラシーに入る為のステップとなっている。やらせとは何か。演出とは何か。やらせと演出の境界線はどこで引くべきか。向後ゼミ文献班一同で、このテーマについて討論した結果、様々な意見が出された。「やらせとは…で、演出とは…である。よって、やらせと演出の境界線は…」と、やらせと演出の概念を考えると難しくなるが、要は、嘘をつくかつかないかという問題なのである。嘘をつけばやらせであり、嘘をついていなければ、演出の範疇である。時々、「演出することもやらせになるのでは」という意見があるが、演出をやらせとしてしまうと、写真や書籍

 


 

や映画までもがやらせになってしまう。なぜなら、これらはジャンルや形態は違うが、事実を加工し、製作して他人に表現するという過程では演出と言えるからだ。

 メディアにおいて、嘘と真実を見分けるのは困難である。ましてや、その上に演出を加えて送られる情報などは、嘘を見抜くことがさらに困難になる。そのような情報から嘘を見抜く為には、やはりメディアリテラシーが必要になってくる。

 メディアリテラシーがどういうものなのかを理解するには時間と労力がかかる。そして、メディアリテラシー能力を身につけるにはさらに時間と労力が必要だろう。私個人の意見としては、メディアリテラシー能力を習得するのは、非常に困難なことだと思う。つまり、この能力は、一生かけて磨き上げるものであり、奥の深い能力なのである。

 現在、日本でのメディアリテラシーへの関心は、まだ低い。しかし、メディアが社会で発達すればするほど、この能力の需要が高まるのは必須である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

X、課題点

 

 今後私たちが取り組むべき内容、また来年度の冊子作りへ向けて、私たちが調べられなかったこと、考えがまとまらなかった点を挙げていく。

 

l         日本で、メディアリテラシーに関する教育を扱う場合、「総合的な学習の時間」で行うことが多いのに対し、なぜ諸外国(カナダなど)では、「国語」の授業で行っているのか。

 

l         海外の文献をもっと読みこめるようになりたい。精読するにあたって、海外のもっと数多くの文献にあたって調べたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

Y、参考文献、WWWサイト

 

カナダ・オンタリオ州教育省,FCT訳. (1992). メディア・リテラシー・リソースガイド. リベルタ出版

カナダ・オンタリオ州教育省. (1992). メディア・リテラシー−マスメディアを読み解く−. リベルタ出版

Potter, W. (1998). MEDIA LITERACY SECOND EDITION . Sage Publications

鈴木みどり編. (1997). メディア・リテラシーを学ぶ人のために. 世界思想社

鈴木みどり. (2001). メディア・リテラシーの現在と未来. 世界思想社

鈴木みどり. (2000). Study Guide メディア・リテラシー. 世界思想社

菅谷明子. (2000). メディア・リテラシー 世界の現場から. 岩波書店

 

民放連メディアリテラシー・プロジェクト 研究報告書. (2001). 社団法人・日本民間放送連盟, 東京大学大学院情報学環メルプロジェクト

これからのテレビ・中学生とともに考える. (2002). 放送番組向上協議会, 放送と青少年に関する委員会

MEDIA LITERACY. (2001). 向後ゼミナール

 

メディア・リテラシーの世界 Media Literacy Project In Japan

http://www.mlpj.org/  

 

総務省郵政事業庁(旧郵政省) 20008

@     放送分野における青少年とメディア・リテラシーに関する調査研究会

A     青少年と放送に関する専門家会合

B 青少年と放送に関する調査研究会

http://www.yusei.go.jp/policyreports/y_index.html

 

鈴木みどり 『メディア・リテラシーの担い手たち』

http://www.mlpj.org/archive/h-report1.html

 


 

「なぜ?」に鈍感な日本人……

情報を読み解く力(メディア・リテラシー)を身に付けよう

http://www.n-dricom.co.jp/dnk/dnk_kansai/title.html

 

東京大学大学院情報学環メルプロジェクト

http://mell.jp/

 

放送番組向上協議会 

http://homepage2.nifty.com/kojokyo/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

2002年度 向後ゼミナール 第一部制作 

発表日時 2002113日 14:0014:50 242講堂

 

文献班

編集長 岡田 和也…U−4、日本におけるメディアリテラシーの展望

    横田 …V、メディアリテラシ―を学ぶ意義

    野田 豊樹…U−2、「やらせ」と「演出」、映像作品制作

    中村 沙織…U−1、メディアリテラシーとは U−2、メディアリテラシーの歴史

    関 真理子…U−3、日本、外国のメディアリテラシーの現状

    大原 聡子…U−5、日本のメディアリテラシー教育、映像作品制作

    荻野 真理子…T−1、メディアについて

    原田 真弓…T−2、「やらせ」と「演出」

映像班 大平 浩之…映像作品制作

    大城 亮子…映像作品制作

    山田 章太郎…映像作品制作